春暁草子

ぜーんぶ虚構!

フラワーアダルト

 

ほんとは死んじゃいたいんだよってみんなに言いまくってたらそれはほんとじゃなくなって、少なくともジョークにできるくらいにはなっていた。誤魔化しをずっとやり続けている。

結果的にはいいことだった。プラセボ希死念慮プラセボの希望。転倒を重ねれば、全部ステージに載せられる。そのシビアさを置き去りにできなくても、生きることはできる。

かなしさに抑えつけられている。苛立ちに踊らされている。どうすればいい? どうすれば、どうしようもない、どうしようもないなら、どうすれば。堂々巡りをずっとずっと続けているのね。抱きたくもない罪悪感。吐き気がする!

花を差し出す平和運動をしていた若者たちのこと、ちっとも馬鹿にできない。どうすればいい? どうしようもない。けれど、どうすれば。彼らだって小さな花を盲信してたわけじゃないだろ。どうしたってかなしいのだ。どうしたって腹が立つのだ。どうしたって苦しいのだ。

そのどうすれば? の答えが花を差し出すことならば、それは赦しの行為だ。なににもならない自分のこと、どうしようもない世界のこと。それを赦すための行為だ。それでも死ななかった人たち。行動を選んだ人のことだ。表出されたものから勝手にその過程を空想する。

花を差し出したい。それがなににもならなくても。滑稽でも。逃避でも、傲慢でも。わたしはフラワーパワーを信じることはできない。フラワーチルドレンになることはできない。大人たちなりの真剣さも、感じ取ってしまうから。わたしは掬い取れるひとになりたくて、それはきっと大人の仕事だから。

それでも花を差し出していいのだ。花だらけのヒッピー衣装ではなく、真っ黒スーツの姿でも。フラワーチルドレンなんて大人たちの揶揄に微笑んで、わたしはフラワーアダルトですと言っていく。あなたたちと同じ、現実に生きている大人です。大人たちの選択にだって微笑みます。大人たちの論理にある正しさも否定しません。それでも、花を差し出すことをやめられない! 救われようがないことが、救いようになった。

天は自ら助くる者を助く、これは神様がいた方が希望が持てるからこんなことを言っている。天は自ら助くる者を助く。いいえ、自ら助くる者が助かるのだ。自分が自分を助けてあげたのに、なんで天のおかげにしないといけない?

天のお陰にしとかないと安心できないから。目の前の人に救われるより、自分が自分を救うより、たしかだと思えるから。努力への保証、補償? そんなの悔しい。

救われたいんじゃないもんね。救いたいの! 神様になれないとわかりきったって、そう祈ることはやめられない。掬われたこの世界で、鰓呼吸は規制されて、肺呼吸の真似をするようになった。でもぜんぜん嫌いじゃないの。苦しいだけでぜんぜん上手くならない肺呼吸を、それでもやめたくないその理由を、確かにわたしは持っている。

理由があるから、花を育てる。そう在る自分になろうとする。上手くいかないけれど、結局死にたいけれど。誰に認められなくていいそれを確かにし続けていく。リアリティでお荷物だとしても、逃げまくってても、わたしはわたしの生存を肯定できるように生きてきて、これからもそうしていく。

 

花を育てる。花を差し出す。花を受け取る。

海で育てた花は、陸では根を張らないかもしれない。陸で育った花は、海中では萎れてしまうかもしれない。波に阻まれて、届かないかもしれない。

それでも。意味は、行為の中に発生するのだ!

 

書いた時期:2023秋くらい

 

 

でっかい箇条書き

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような

 

生来この身に宿るアトピー性皮膚炎は、わたしの身体を常に燃やしている。酷いときにはアカギレが手指を埋め尽くし、手足には引っ掻き傷が満遍なく散らばる。

小学生の頃、球技が好きじゃなかった。単純に下手だったってのもあるけど、それよりもまず、冬場はマトモにボールが持てない。力を込めると血が流れ出す指先に、テクニックなんて意味がない。なるべく痛くないように、関節を曲げないように。まずそこからだ。

特にひどくなるのは空気が乾燥する冬場と、なんかわかんないけど季節の変わり目。両手の関節に入ったヒビ割れから血が出ない程度の曲げ方をもうすっかり覚えてしまった。ない時は普通に曲げられるのに、ある時は指の関節を曲げる感覚すら思い出せない。主観ってその程度で、自分の身体的感覚への信用のなさはこういうところから来ている。自分の指が、気管支が、肋骨が、歯が、手足が、頭が、子宮が、自分のものだったことなんてない。身体はいつも勝手で身勝手。これはわたしの知らないものだ。

お酒を飲む、お風呂に入る、血行が促進されると炎症が起きてる場所が赤みを帯びる。まだらに朱に染まった指先は、まるで飛行機から見下ろす列島の夜景だ。人々の営み、自分の肉体で起こっている何か、それらはあまり変わらないことで。肉体は宇宙のメタファーだし、宇宙は生命のメタファーなんだよ、陳腐だけど、本当に素朴にそう思っちゃった。

肉体と宇宙のポエジーに目覚めてから、ひび割れをみるとハワイのキラウエア火山も思い出すようになった。女神の髪の毛のように流れ、停滞する溶岩。しわくちゃの地面に、所々滲む真っ赤な光。しわくちゃの指がひび割れて、真っ赤な血が流れ出すメタファーかも。

 

夏の日。強い日差しに灼かれ始めたような、痛みには満たない熱が顔を覆っている。別に日焼けじゃない。新しい薬がピリつくやつだったってだけ。22年アトピーを抱えて、まだ知らない薬があって、まだ知らない感覚がある。

アトピーは最悪で、絶対なかった方が良かったけど、これは面白い。顔が満遍なく発熱するとこんな感じなのか。不快ってほどじゃないけど、今が冬だったら良かったかも。冬だったら乾燥も相乗して最悪のその先まで行ってたかな。じゃあ夏でよかった。こういう気分の時だってある。

 

友人の家でステロイド剤を使いたくない。肌はベタつく。身体中が薄膜で拘束されている。不快さ。動くたびに部屋のどこかに薬剤を付けてしまっている気がする。落ち着かない。

朝夕塗れって? これを? 嫌だー! このベタベタをあちこちに振り撒いて生きる。わたしが通った、触った、在った跡が残っているようで本当に気持ち悪い。割に合わなくない? 生きてただけなのに。そんな気持ちに、友だちの家でなりたくないよ。そのせいでハンドクリームとか、ベタつきが残る肌に塗るもの全般が苦手で、絶対必要ってわかってるんだけど苦手で、困ってる。

 

 

飛行機から見下ろす夜景のように、わたしの手に浮かび上がる朱。流れ出す溶岩のように、ヒビ割れから滴る赤。

わかっている。わたしの身体には一片も恥じるところはなく、同じように誇るところもない。ほんとはいつだって裸になれる。わたしはただこの身体でここに居るだけである。そんなことはわかっていて、それでも耐えられない日がある。

 

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような。そんなポエムを言っているやつ、殺してやる! 比喩なんてする余地もない。痛みも痒みも圧倒的な現実だ。

なんで? 痒みで眠れない夜、リビングでひとり身体を冷やしながらずっと問うていた。まだ小児喘息の症状が出てた頃、ひとりだけ、テレビを見ている家族から離されて吸入をさせられていたときと同じ。与えられた不条理への怒り。どこまで行こうと付き纏ってくる。重たい荷物! 

 

わたしに付き添う母は、それでもフラットにわたしを扱って、それはわたしにとってとても良かった。この身体を劣っていると見做さず、同情をせず、他者としての愛情で心配し、事実だけを述べる母の姿勢は、この身体と距離をとるやり方を教えているようだった。

 

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような。比喩を介して苦痛は詩になり、わたしという存在に埋め込まれる。

 

ポエジーに滲ませた切実さすら、生温くって耐えられなくって、自意識は浮力を失う。言葉でコーティングした苦痛を、わざわざ掘り起こして憤慨する。受け入れられない。これは苦痛なのだと拒絶する。

アイロニーと比喩に浸って、この身体を受容する。これは生まれついての性質で、それ以上でもそれ以下でもないと示す。自分に埋め込んで、切り離せるわけないけど、そんなことは問題じゃないと語り出す。

繰り返しだ。繰り返すしかない。ずっと海のなか。水面と水中の区別も覚束ない。揺蕩うだけで、人生におけるよしなしごとは、なべて打ち寄せる波だった。それに応えるときと、応えないときがあるだけで。それはわたしの範疇ではないのであった。

 

悲哀も苦痛もさざめく波間、連続する塩水の狭間に、月明かりに照らされて白くて大きな腹部を上にして浮かび上がるでっかいおさかな。死んでいるみたいだけれど、息はしていて、そう見えることはこの身体には関与しないのだ。

その鰭をいたづらに動かしたりする日がある? それは、遠くの津波を生むのか? この肢体に打ち寄せ微弱に押し返された波が打ち砕いてしまう何かがあるのか?

 

なんど問うても堂々巡り。矛盾のスコールあられ雨、一貫性は不気味の所業だから、それでいい。相関性の妄想が風を吹かせて、わたしたちは嵐の只中。

 

でっかい箇条書きの集まり。

 

かいたころ:2022春?

 

清顕と聡子の奈良について

 前年度に提出しなかったレポートを供養します。『豊饒の海』シリーズの授業で、レポートテーマは「清顕と聡子の奈良」でした。

 

レポートタイトル:永遠は白昼夢のなかに

 

 『春の雪』における奈良について論ずるにあたり、私は作中でもう一つ印象深い場所として登場する鎌倉に着目したい。清顕と聡子の終わり、死を奈良にする理由を見出すのに、二人の永遠を鎌倉においたことを見つめるのは無意味ではないだろう。また、二人の奈良は『春と雪』のみならず、『天人五衰』にもあることにも触れたい。

 鎌倉とはどんな場所だろうか。関東近郊において海があり、新仏教が花開いた土地だ。そして三方を山、一方を海に囲まれた束縛と解放の両面を担う場所である。ここで注目したいのが、大仏と海の存在だ。本作における仏教は死を思わせ、同時に永遠を謳い、転生を示唆するものである。奈良と同様、鎌倉も仏のいる場である。鎌倉において、死は二人の逢瀬が禁忌である現実であり、永遠は清顕と聡子の逢瀬だ。それを示す大きなモチーフが海である。

清顕と聡子にとっては、鎌倉での逢瀬のひとときは生である。現実という滅亡を知っていながらも、泡沫の永遠を浜辺に寄せた船の儚い影で営む。海は生であり、流れである。禁忌を犯す聡子が海と一つになって自分の身を隠すことは、泡沫の永遠という矛盾の実現だ。

海は終わる。鎌倉での休暇が月光姫の死によって終わると、清顕の「幸福な夏」「自分の若さの最良の時」はタイの王子たちと一緒に海の彼方に消え去ってしまう。鎌倉に来たばかりのとき、山の上から仏を遠眺めするばかりで、跪坐しなかった清顕は、運命をはるかに眺めているも同然だった。鎌倉編において海は人生のメタファーであり、つまり歴史のメタファーで、運命につながるものである。王子二人がした転生の話に対する本多の反論は、このことに対応している。清顕は鎌倉で、死のなかから生を見ることを疑似体験するのだ。海という大きなうねりの終着点である砂浜において、清顕は死の側から生である人生ひいては歴史を見る。

 この死の側に至る場が仏教に象徴されている。その象徴を清顕と聡子にとっての現実にするために選ばれた舞台が奈良なのである。豊饒の海は『春の雪』から『奔馬』のなかで、輪廻転生を謳い、死後世界が強調される仏教から、死を汚れとし世界すべてに神を見出す神道へと移行する。この対照性もまた、『春の雪』において奈良が死に際する場所である証左だ。思想のない清顕=死と、思想を掲げ行動した勲=生という対比もそれを示している。

 清顕は鎌倉では見下ろした御仏を、奈良では山を登って尋ねなければならない。運命から逃れられるように思えた夏の日は消え去り、運命のなかで傷つけられ足掻く冬の日が広がる。清顕は六回目の月修寺への訪問において、自分が住み慣れた「この世」であることを疑っている。清顕のいるそこは死との境に当たる世界だ。すでに彼の魂は聡子に会いたいという目的を乗り越えた「行ずること」、聡子へ誠を見せることに向いており、世俗=生の世界にはない。また、聡子はすべてを隠し、宮家に背いて嫁ぐ現実、もしくは清顕と手を取り合っての逃避=生ではなく、罪を背負い、仏教=死に従って在ることを選ぶ。母と訪れた死にかけの秋の庭で出家した聡子は、冬の日にその想いを拒絶することで今生の清顕を殺すのだ。鎌倉では二人の生を成立させた罪、世界からの否定が、奈良においてはそのまま二人を永遠に分かち、死をもたらす。門跡の法話は二人のことを表している。因陀羅網に引っかかっている彼らは運命から逃れることは叶わず、その因果は常に相続縁起する。つまり、現世から去った清顕の魂は今生の業により転生を繰り返すことが示唆されるのだ。本多はそのことをこの時は理解できない。そこからの解放が示されるのは、本多の長い人生と清顕の魂の複数の流転を経た末である。

豊饒の海の終焉、『天人五衰』のラストシーン。本多は六十年ぶりに奈良に訪れる。門跡となった聡子は本多の語る清顕のことを、本多の夢だったのではないかと言う。そして、視点は眩い夏の庭に向けさせられ、これまでのすべてが、「何もない」場所に来てしまったと思う本多で作品は終わる。ここでようやく、本当の死が清顕には訪れるのだ。本多の見ていた生まれ変わりという夢、清顕と聡子という美しいものが、ここですべて否定される。そして、否定されることで、完成するのだ。鎌倉の夜の泡沫の永遠が、「否」に囲まれて守られていたように。それは運命や歴史、因果からの解放である。運命や歴史、因果は常に解釈を伴う。逆に言えば解釈―理屈付けをされることで物事は歴史になる。しかし、二人がただ在ったことそれ自体の美しさには、いかなる理屈も必要ないのである。歴史である必要はない。意味がある必要もない。二人はただ在っただけなのだ。観測者の無粋なまなざしに脅かされない永遠を、本多の夢幻の中で清顕と聡子はようやく手にする。それはやはり、二人にとっての死であり、永遠の場である異界、奈良においてしか為されない。そしてまた、死に向かったあの冬の日から遠く離れ、死の場であるはずの奈良に現われた、生の輝きが眩い夏の日でなければならないのだ。