春暁草子

ぜーんぶ虚構!

清顕と聡子の奈良について

 前年度に提出しなかったレポートを供養します。『豊饒の海』シリーズの授業で、レポートテーマは「清顕と聡子の奈良」でした。

 

レポートタイトル:永遠は白昼夢のなかに

 

 『春の雪』における奈良について論ずるにあたり、私は作中でもう一つ印象深い場所として登場する鎌倉に着目したい。清顕と聡子の終わり、死を奈良にする理由を見出すのに、二人の永遠を鎌倉においたことを見つめるのは無意味ではないだろう。また、二人の奈良は『春と雪』のみならず、『天人五衰』にもあることにも触れたい。

 鎌倉とはどんな場所だろうか。関東近郊において海があり、新仏教が花開いた土地だ。そして三方を山、一方を海に囲まれた束縛と解放の両面を担う場所である。ここで注目したいのが、大仏と海の存在だ。本作における仏教は死を思わせ、同時に永遠を謳い、転生を示唆するものである。奈良と同様、鎌倉も仏のいる場である。鎌倉において、死は二人の逢瀬が禁忌である現実であり、永遠は清顕と聡子の逢瀬だ。それを示す大きなモチーフが海である。

清顕と聡子にとっては、鎌倉での逢瀬のひとときは生である。現実という滅亡を知っていながらも、泡沫の永遠を浜辺に寄せた船の儚い影で営む。海は生であり、流れである。禁忌を犯す聡子が海と一つになって自分の身を隠すことは、泡沫の永遠という矛盾の実現だ。

海は終わる。鎌倉での休暇が月光姫の死によって終わると、清顕の「幸福な夏」「自分の若さの最良の時」はタイの王子たちと一緒に海の彼方に消え去ってしまう。鎌倉に来たばかりのとき、山の上から仏を遠眺めするばかりで、跪坐しなかった清顕は、運命をはるかに眺めているも同然だった。鎌倉編において海は人生のメタファーであり、つまり歴史のメタファーで、運命につながるものである。王子二人がした転生の話に対する本多の反論は、このことに対応している。清顕は鎌倉で、死のなかから生を見ることを疑似体験するのだ。海という大きなうねりの終着点である砂浜において、清顕は死の側から生である人生ひいては歴史を見る。

 この死の側に至る場が仏教に象徴されている。その象徴を清顕と聡子にとっての現実にするために選ばれた舞台が奈良なのである。豊饒の海は『春の雪』から『奔馬』のなかで、輪廻転生を謳い、死後世界が強調される仏教から、死を汚れとし世界すべてに神を見出す神道へと移行する。この対照性もまた、『春の雪』において奈良が死に際する場所である証左だ。思想のない清顕=死と、思想を掲げ行動した勲=生という対比もそれを示している。

 清顕は鎌倉では見下ろした御仏を、奈良では山を登って尋ねなければならない。運命から逃れられるように思えた夏の日は消え去り、運命のなかで傷つけられ足掻く冬の日が広がる。清顕は六回目の月修寺への訪問において、自分が住み慣れた「この世」であることを疑っている。清顕のいるそこは死との境に当たる世界だ。すでに彼の魂は聡子に会いたいという目的を乗り越えた「行ずること」、聡子へ誠を見せることに向いており、世俗=生の世界にはない。また、聡子はすべてを隠し、宮家に背いて嫁ぐ現実、もしくは清顕と手を取り合っての逃避=生ではなく、罪を背負い、仏教=死に従って在ることを選ぶ。母と訪れた死にかけの秋の庭で出家した聡子は、冬の日にその想いを拒絶することで今生の清顕を殺すのだ。鎌倉では二人の生を成立させた罪、世界からの否定が、奈良においてはそのまま二人を永遠に分かち、死をもたらす。門跡の法話は二人のことを表している。因陀羅網に引っかかっている彼らは運命から逃れることは叶わず、その因果は常に相続縁起する。つまり、現世から去った清顕の魂は今生の業により転生を繰り返すことが示唆されるのだ。本多はそのことをこの時は理解できない。そこからの解放が示されるのは、本多の長い人生と清顕の魂の複数の流転を経た末である。

豊饒の海の終焉、『天人五衰』のラストシーン。本多は六十年ぶりに奈良に訪れる。門跡となった聡子は本多の語る清顕のことを、本多の夢だったのではないかと言う。そして、視点は眩い夏の庭に向けさせられ、これまでのすべてが、「何もない」場所に来てしまったと思う本多で作品は終わる。ここでようやく、本当の死が清顕には訪れるのだ。本多の見ていた生まれ変わりという夢、清顕と聡子という美しいものが、ここですべて否定される。そして、否定されることで、完成するのだ。鎌倉の夜の泡沫の永遠が、「否」に囲まれて守られていたように。それは運命や歴史、因果からの解放である。運命や歴史、因果は常に解釈を伴う。逆に言えば解釈―理屈付けをされることで物事は歴史になる。しかし、二人がただ在ったことそれ自体の美しさには、いかなる理屈も必要ないのである。歴史である必要はない。意味がある必要もない。二人はただ在っただけなのだ。観測者の無粋なまなざしに脅かされない永遠を、本多の夢幻の中で清顕と聡子はようやく手にする。それはやはり、二人にとっての死であり、永遠の場である異界、奈良においてしか為されない。そしてまた、死に向かったあの冬の日から遠く離れ、死の場であるはずの奈良に現われた、生の輝きが眩い夏の日でなければならないのだ。