春暁草子

ぜーんぶ虚構!

でっかい箇条書き

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような

 

生来この身に宿るアトピー性皮膚炎は、わたしの身体を常に燃やしている。酷いときにはアカギレが手指を埋め尽くし、手足には引っ掻き傷が満遍なく散らばる。

小学生の頃、球技が好きじゃなかった。単純に下手だったってのもあるけど、それよりもまず、冬場はマトモにボールが持てない。力を込めると血が流れ出す指先に、テクニックなんて意味がない。なるべく痛くないように、関節を曲げないように。まずそこからだ。

特にひどくなるのは空気が乾燥する冬場と、なんかわかんないけど季節の変わり目。両手の関節に入ったヒビ割れから血が出ない程度の曲げ方をもうすっかり覚えてしまった。ない時は普通に曲げられるのに、ある時は指の関節を曲げる感覚すら思い出せない。主観ってその程度で、自分の身体的感覚への信用のなさはこういうところから来ている。自分の指が、気管支が、肋骨が、歯が、手足が、頭が、子宮が、自分のものだったことなんてない。身体はいつも勝手で身勝手。これはわたしの知らないものだ。

お酒を飲む、お風呂に入る、血行が促進されると炎症が起きてる場所が赤みを帯びる。まだらに朱に染まった指先は、まるで飛行機から見下ろす列島の夜景だ。人々の営み、自分の肉体で起こっている何か、それらはあまり変わらないことで。肉体は宇宙のメタファーだし、宇宙は生命のメタファーなんだよ、陳腐だけど、本当に素朴にそう思っちゃった。

肉体と宇宙のポエジーに目覚めてから、ひび割れをみるとハワイのキラウエア火山も思い出すようになった。女神の髪の毛のように流れ、停滞する溶岩。しわくちゃの地面に、所々滲む真っ赤な光。しわくちゃの指がひび割れて、真っ赤な血が流れ出すメタファーかも。

 

夏の日。強い日差しに灼かれ始めたような、痛みには満たない熱が顔を覆っている。別に日焼けじゃない。新しい薬がピリつくやつだったってだけ。22年アトピーを抱えて、まだ知らない薬があって、まだ知らない感覚がある。

アトピーは最悪で、絶対なかった方が良かったけど、これは面白い。顔が満遍なく発熱するとこんな感じなのか。不快ってほどじゃないけど、今が冬だったら良かったかも。冬だったら乾燥も相乗して最悪のその先まで行ってたかな。じゃあ夏でよかった。こういう気分の時だってある。

 

友人の家でステロイド剤を使いたくない。肌はベタつく。身体中が薄膜で拘束されている。不快さ。動くたびに部屋のどこかに薬剤を付けてしまっている気がする。落ち着かない。

朝夕塗れって? これを? 嫌だー! このベタベタをあちこちに振り撒いて生きる。わたしが通った、触った、在った跡が残っているようで本当に気持ち悪い。割に合わなくない? 生きてただけなのに。そんな気持ちに、友だちの家でなりたくないよ。そのせいでハンドクリームとか、ベタつきが残る肌に塗るもの全般が苦手で、絶対必要ってわかってるんだけど苦手で、困ってる。

 

 

飛行機から見下ろす夜景のように、わたしの手に浮かび上がる朱。流れ出す溶岩のように、ヒビ割れから滴る赤。

わかっている。わたしの身体には一片も恥じるところはなく、同じように誇るところもない。ほんとはいつだって裸になれる。わたしはただこの身体でここに居るだけである。そんなことはわかっていて、それでも耐えられない日がある。

 

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような。そんなポエムを言っているやつ、殺してやる! 比喩なんてする余地もない。痛みも痒みも圧倒的な現実だ。

なんで? 痒みで眠れない夜、リビングでひとり身体を冷やしながらずっと問うていた。まだ小児喘息の症状が出てた頃、ひとりだけ、テレビを見ている家族から離されて吸入をさせられていたときと同じ。与えられた不条理への怒り。どこまで行こうと付き纏ってくる。重たい荷物! 

 

わたしに付き添う母は、それでもフラットにわたしを扱って、それはわたしにとってとても良かった。この身体を劣っていると見做さず、同情をせず、他者としての愛情で心配し、事実だけを述べる母の姿勢は、この身体と距離をとるやり方を教えているようだった。

 

見下ろす夜景のような、流れ出す溶岩のような。比喩を介して苦痛は詩になり、わたしという存在に埋め込まれる。

 

ポエジーに滲ませた切実さすら、生温くって耐えられなくって、自意識は浮力を失う。言葉でコーティングした苦痛を、わざわざ掘り起こして憤慨する。受け入れられない。これは苦痛なのだと拒絶する。

アイロニーと比喩に浸って、この身体を受容する。これは生まれついての性質で、それ以上でもそれ以下でもないと示す。自分に埋め込んで、切り離せるわけないけど、そんなことは問題じゃないと語り出す。

繰り返しだ。繰り返すしかない。ずっと海のなか。水面と水中の区別も覚束ない。揺蕩うだけで、人生におけるよしなしごとは、なべて打ち寄せる波だった。それに応えるときと、応えないときがあるだけで。それはわたしの範疇ではないのであった。

 

悲哀も苦痛もさざめく波間、連続する塩水の狭間に、月明かりに照らされて白くて大きな腹部を上にして浮かび上がるでっかいおさかな。死んでいるみたいだけれど、息はしていて、そう見えることはこの身体には関与しないのだ。

その鰭をいたづらに動かしたりする日がある? それは、遠くの津波を生むのか? この肢体に打ち寄せ微弱に押し返された波が打ち砕いてしまう何かがあるのか?

 

なんど問うても堂々巡り。矛盾のスコールあられ雨、一貫性は不気味の所業だから、それでいい。相関性の妄想が風を吹かせて、わたしたちは嵐の只中。

 

でっかい箇条書きの集まり。

 

かいたころ:2022春?